6 咆哮
絶対に見間違いなどではなかった。
それは、まるで写真のように俺の目蓋に焼き付いた。
京子は目を瞑っていたが決して眠ってはいないことまで、その眉間に寄せられた僅かなシワが如実に物語っていた。
下げられた男の腕の行方までは分からなかったが、その眉間のシワは、京子が快感の渦に流されそうな自分を必死に抑えている時の特徴だった。
何故、そんな行動に出たのか、今でも分からない。
京子の仕事はホステスである。
客に送られて帰ってくることなど、特に珍しくも何ともないだろうし、その折、恋人のように腕を絡める程度のことだって本来大したことではない。眉間のシワなどにしたところで、スケベ親父に太腿でも触られた不快な表情であっただけなのかも知れない。
例え、それが俺に予告していた時間よりも、ずっとずっと早い時間であったとしても、それこそ大した期待もせずに待ち望んでいた僥倖とも云えることであり、むしろ喜ぶべきことであるはずだった。
だが、そういう理屈をいくつか思い浮かべながらも、俺の本能はハッキリそれらを全て否定し、激しく警鐘を打ち鳴らしていた。
それは、自分のメスを奪われそうになっている、オスの本能であると言っても良いだろう。
俺はとっさにきびすを返し、半ば隠れるようにして小走りで今来た道を引き返した。
マンションの前で止まったメルセデスの運転席から、男が一人降り、後部座席のドアを恭しく開けて、中を見ないような不自然な角度で頭を下げている。
30秒か、1分か。
とにかく気が遠くなりそうな時間を置き、気だるそうな顔をした京子が、スカートの裾を直しながら出てきた。
一瞬、本能の鳴らす警鐘を無理矢理ねじ伏せて、やはり眠っていただけだったのかも知れないと考えたのもつかの間、続いて降りてきたオヤジに、自ら腕を絡めてしな垂れかかり、一緒に玄関ホールに向かう2人を確認した瞬間、俺は言葉にならない絶叫を上げてそのオヤジに殴り掛かっていった。
猛然と襲い掛かる。
京子は、驚愕の表情と共に高い悲鳴を――。
突然の暗転。
だが、意識が飛んだのは、ほんの一瞬のことのようだ。
俺が認識出来たのは、横からの強烈な衝撃だけだった。
それが殴られたのだと理解したのは、自分がアスファルトに転がっていることに気が付いた後だった。
「なんだ? お前は?」
顔色を失くした京子の横で、尊大に俺を見下ろす腹の突き出たパンチパーマは、全ての映像が歪んでいる今の空間の中でも、やはりヤクザに見えた。
俺はスグに立ち上がろうとしたが、何故か脚に全く力が入らず、無様にもアスファルトに尻から落ちた。
「秋彦……」
息を呑み、掠れた声で京子が呟く。
「ふん。これがお前の言ってた、腹違いの義弟のアキヒコちゃんか?」
パンチパーマはその俺の様子を見て冷笑を浮かべると、京子の肩を抱き、玄関ホールの方へと歩き出す。
――おとうと?
何を言ってるんだ? こいつは?
いや、そんなことはどうだって良い。予感があった。
行かせちゃだめだ。ここで行かせたら――。
2度と元には戻れない。
「くそ、待て……待て……。くそっ……ぅぉおおおおっ!」
言うことを聞かない足を右腕で強引に引き寄せ、残った左腕で無理矢理に這いずる。
俺は無意識のうちに咆哮を上げながら、痙攣する太腿に手を突き、今度こそ立ち上がった。
瞬間、側頭部。
再び転がされる。
これか――。
少しポイントがずれたのか、アドレナリンの効果か。
意識だけは飛ばなかった。
「ぼうず。いい加減にしろや。死ぬぞ」
気負いも何もない冷静な声。
手加減されたのだと気付いた。
「おいおい、加藤、殺すなよ」
あくまで尊大な態度を崩さず、パンチパーマが嗤う。
「ぼうず。お前がこの女の何なのかは知らんが、俺達が堅気じゃないことくらいは判るはずだ。今日のところは帰れ」
加藤と呼ばれた男が言い終わらぬうちに、俺は再びパンチパーマに殴りかかっていったが、後ろから足を蹴られて前に転がされる。
――が、掴んだ。
前に転がされたおかげで、パンチパーマのズボンの裾を、俺の右手が掴んだ。
この手は離さない。
上から加藤に蹴られ、前からパンチパーマに蹴られながらも左手でにじりよる。
「しつこいんだよ、ガキっ! しまいにゃホントに殺すぞ!」
後ろから加藤に髪の毛を摑まれ、前からパンチパーマに右手を蹴られて掴んだズボンの裾が右手からすり抜けていった。
だめだ……これは離しちゃだめなんだ――。
涙と鼻血に塗れて、ぐちゃぐちゃになった顔を更に蹴られた。
「花井さんっ! やめてっ!」
花井?
花井ってのか。
このデブは。
「何をとち狂ってんのか知らねぇがな、こっちゃ別にこいつ誘拐うってんじゃねぇんだ! 同意の下なんだよ。同意。分かってんのか? お前の義姉ちゃんはな……さっきも車ん中で俺に股座触られてひぃひぃ言ってたんだ。ぐちょぐちょにまんこ濡らせてな……・」
「花井さん! やめて……」
サディスティックに嗤う花井の横には、俺が今までに見たこともないくらい、醜悪に表情を歪ませた京子がいた。
きょうこ……。
「うるせぇよ。世間知らずのお前の義弟に、大人の男と女の世界のことを教えてやってんだ。何だったらついでにヤクザに歯向かうってことが、どう言う事かも教えてやったって良いんだぞ」
その、薄ら笑いを浮かべる口を黙らせてやる。
「おい、知ってるか? お前の義姉ちゃんのフェラは絶品だ。フェラだフェラ。 判るか? お しゃ ぶ り だ。 お前の義姉ちゃんはな、それは嬉しそうに俺の……」
――ギリっ――。
嘘だ。
お前が知ってるわけない。
嘘だ。
黙れっ!
ぶち。
ぶち……ぶち……ぶち……
花井と呼ばれたパンチパーマのズボンの膝の辺りを掴み、加藤に摑まれた髪の毛を引きちぎられながらも立ち上がった。
その加藤が、またも後ろから俺を蹴るのと、俺が花井を殴り倒したのはほぼ同時だっただろう。
「秋彦っ!」
俺は後ろから加藤に殴られながらも、花井の上に馬乗りになり、何故京子は加藤ではなく、俺を止めようとするのかが全く理解出来ないまま殴り続けた。 大垣を殴った時と同じで、マトモな思考は一切出来ず、ただ拳を花井の太った顔面目掛けて打ち下ろす。
しゃぶったのか……
しゃぶらせたのか……
何発殴ったか判らないが、いきなり後頭部に衝撃がきた。一瞬、後ろ向きに引っ張られるような、強烈な重力を感じ動きが止まったかも知れないが、それを無理矢理振り切って再び俺は殴りにかかった。
また来た。
やはり後頭部だ。
今度は連続でまとめて入る。
何か細くて硬いものだ。
自分でも、段々と動きがスローモーションのように鈍くなっていくのが判るが、決して打ち下ろす拳だけは止めなかった。 その間、何発殴られようが蹴られようが、パンチパーマの血まみれになったみっともない顔面目掛けてただ闇雲に拳を打ち下ろす。
その時、首の辺りに何かが巻きついてきたような気がしたが、それでもやはり拳は止めない。
その醜く腫れ上がり切れた目蓋に。
折れた歯が血の泡の中に浮かぶ、汚らしい口元に。
その目で俺の京子の裸を見たのかっ!
その口で俺の京子の唇を吸い、胸にしゃぶりつき、お、おまんこを舐めまわしたのかっ!
許さん!
殺す!
死ね!
死ね!
死ね!
死ね!
死ね!
死ね!
死ね!
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調教師 5 ~第3章~ 1 拉致 ~ に続く