G A M E
出会いは突然だった――。
唇を重ねたのは私の方からだったのか……
カレと泊まるはずだった週末のホテル。
気が付けば――。
いつの間にか、腕を絡めて違う男とエレベーターに乗り込んでいたような気がする。
些細な口論から席を立ってしまったホテルのレストラン。少しくらい期待していたのに、結局カレは私を追いかけてはこなかった。
クガ アキヒト。
同じホテル内の最上階。一人でフラっと立ち寄ったバー・ラウンジの隣に座っていた男は自らをそう名乗った。
こういう字を書くんだと、グラスについた水滴でカウンターの大谷石をなぞっていたが、私はその文字ではなく、細いが、か弱さを微塵も感じさせないエロティックな指――。
繊細なクセに欲しいものは全てを鷲掴みにしてしまいそうな、力強くセクシーな指が流れるように動くのを黙って見つめていた。
30代半ば……いや、若く見えるだけでひょっとすると40代なのかも知れない。
シャンパンは好き?
不意を付く男の言葉に、私は思わず頷いてしまった。
グラスに注がれる、まるでシルクを思わせる滑らかな泡。そしてそこから生み出されるゴールドの煌き。
小さく控えめなラベルの中で、それだけははっきりと自己を主張する金色の文字。
深い緑のクリュッグのボトル。
へぇ……ひょっとして貴方クリュギスト?
ドンペリじゃないところは確かに好感が持てるけど、これから私にどんな素敵なウンチクを聞かせるつもり?
少し醒めた思いのままグラスを傾ける。けれども私の意に反し、男の唇は帝王と呼ばれたシャンパーニュを流し込む以外には一向に開こうとはしなかった。
黒。
その男の印象である。
深い黒のビロードのジャケットに包まれたその体躯はおそらく180cmを超えている。
そしてやはり黒のシルクシャツに包まれた肉体は、一見痩せては見えるが、よく見直してみれば一切の無駄を省かれた鋼の束がうねるように走っているのが分かる。
加えて、色の薄いサングラスの隙間から時折垣間見える、カミソリを思わせる鋭い切れ長の眼――。
そこに浮かぶのは、高い知性と強い意志――。
そして必要とあらばどこまでも冷酷になれそうな黒い瞳。
髪は墨を流したような黒に、そこだけメッシュでも入れたかのようにところどころ色の抜けた銀色の束が目立っていた。
この男は危険だ――。
私の中にある女の本能がそう告げていた。
しかし、毒と分かっていてなお抑えきれぬ濃厚な蜜の誘惑。
私はその赤い赤い毒りんごを手に取ってしまったのか?
金曜日。
せっかくの休日前夜を少しでも有意義に過ごそうと、街はせっかちな人々で溢れていた。
そんな喧騒を横目に、予約したホテルのレストランで過ごす至福のひと時。
フランス人は料理を芸術の粋にまで高めてしまった。その至高の一品一品を目と舌で愉しみつつ、ボルドーの甘い香りが更なる刺激を伴い鼻孔をくすぐる。
付き合い始めて1年を迎えた記念日を祝おうと言い出したのは貴方の方よ。
なのに何? あの言葉は……
せっかく最高のシチュエーションを用意して気分を高めておきながら、たった一言で全てが台無し。
私が上から下まで、どんな想いでバッチリとキメてきたと思っているの?
好きな男に逢う――。
ただそれだけのことに、一体女がどれだけの時間とお金と情熱を注いでいるのか男達は知らない。
もちろん、白鳥を見るときには水上の優雅なすまし顔だけを見ていれば良いのだ。
わざわざ水のベールに隠された必死の努力などを覗き見る必要はない。
ないがしかし、その想いくらいは分かってくれても良い。
「俺はこれから自分の部屋に戻るが、君はどうする?」
え?
瞬間に浮かんだのは、目の前の男ではなくカレの顔。
そして最後のセリフ。
ううん……この男はカレではない。
だけど、それでもやはり許せない。
どうするだって?
やっと口を開いたと思ったら……君はどうする? だって?
目の奥がカっと熱くなった。
ロクに口説きもしないでいきなり自分の部屋に誘う。
もっとデキる男だと感じていただけに、舐められていると思った。
この男は絶対に只者ではない。
それくらいのことは私にだって分かる。
真剣に口説こうと思ったら、キチンとそれなりの手順を踏んでスマートに口説ける種類の男だ。
それが全ての手続きを飛ばして部屋に誘うということは、それだけ私に執着していないということに他ならない。
別に特別口説きたい訳でもないが、たまたま隣で一緒に飲んだから、大人の男性としてエチケットで誘っているんだ――とでも言われているように感じた。
言っておくが、行きずりのセックスなど何でもない。
勢いや間違い……女にだっていろいろとある。
男は数を増やし、女は数を減らすものらしい。
もちろん過去の異性経験の数だ。
だが、そもそも本来行きずりのセックスなどを数に入れることの方がおかしい。
はっきり言ってそのほとんどはいつの間にか忘れてしまうものだし、それこそ何の経験にもなっていないのだから。
それに普段これだけ頑張っているんだ。少しくらい羽目を外したって何も悪いことなどあるはずがない。
けれども女は宝石。
この世でたった一つしかない特別な宝石。
そしてその宝石を磨くも曇らすも全ては自分次第。
価値を高めることは自分にしか出来ず、安く見られるくらいなら、家で一人寝の夜を過ごす事を選ぶ。
舐めるな!
睨み返してやろうと思ったが、男は相変わらず視線を前に向け、平然とグラスを傾けていた。
「返事がないと言うことは、フラレたんだな……俺は」
私が口を開こうとした正にその瞬間、男はやはり真っ直ぐ前を向いたまま少し自嘲気味に微笑むと、見事なタイミングで席を立った。
ちょっ……
つられて立ち上がりかけた私の方をまるで振り向きもせず、男は黙って出て行ってしまった。
「あっ!」
視線で男を追いかけていた私に、突然響いたバーテンのあげた声が突き刺さる。
そこで反射的に前を向いた私の目に飛び込んできたのは、目の前に置き去りにされたジッポーのオイルライター。
何故か……今でもその理由は分からない。けれど、ソレを見た瞬間、私は思わずソレを掴んで立ち上がっていた。
「あっ、お客様。もし良ろしければ、これも一緒にクガ様に届けてくださいませんか?」
気を利かせたバーテンが、軽くフタを閉めなおした飲みかけのクリュッグのボトルを手渡してきた。
見ると男の背中はすでに消えている。
「ええ」
私は左手にジッポーを握り締め、右手でクリュッグのボトルを受け取ると、ヒールを鳴らして足早に追いかけた。
歩きだしてすぐに感じたことは、私は自分で思っているよりもよっぽど酔っているということ。
その証拠に頭がふらつき空気が歪んだ。
それでもついてしまった勢いは止められない。
店を出て左、確かこっちにはエレベーターがあったはず。
乗り込まれたら最後、追いつくことは絶対に出来ない。
どうする?
最悪フロントに聞けば部屋は教えてくれるかもしれない。
けれどそうなれば、これらの品をフロントに預けるだけで終わり、あの男に会うことは2度と叶わないだろう。
何となくそんな気がした。
ん?
いつの間にか……自分でも気づかないうちにいつの間にかあの男に再び会うことを願っている。
何……この感覚?
そうだ。
突然のあのセリフ。
文句の一つも言ってやらなきゃ気が済まない。
エレベーターホールに出る角を曲がる瞬間、踏み出した右足の底が滑った。
あ!
それと同時に沸き起こったわずかな違和感。
ジッポー。
左手に握り締めたジッポーのオイルライター。
ふいに湧き上がる映像。
バーテンの声に導かれて落とした視線の先――。
私のグラスのすぐ横に置き去りにされていたジッポー。
けれど、確かその前……男の手がカウンターに置かれたジッポーに伸び、慣れた手付きでたばこに火をつけているところに見惚れていた。
そしてその手は、そのジッポーを自分の右側、つまり私の座っているのと反対側に置いていたはず……
完全にバランスを崩し、景色が急激に歪む。
倒れる!
「きゃっ!」
無意識に叫び声をあげてしまった瞬間、ふいに私の周りから重力が消えた。
「なんだ……わざわざ持ってきてくれたのか?」
何が起きたのか全く理解出来ていない私に、上から男の声が降り注ぐ。
そこで完全に吸い込まれてしまった。
柔らかな微笑み。
その中でも一際特徴的な眼。
初めて正面から見たその眼は、どこまでも透明に沈む深い湖。
そのジンクリアな水の底にあるものは……絶望?
「良い子だ」
男に軽々と抱きかかえられた私は、その逞しい首に自ら腕を絡めていったところまでは覚えている。
けれどそこから先の記憶はかなり曖昧で、まるで夢の中の出来事のように頼りなくふわふわとしていた感覚しか覚えていない。
どうやってエレベーターに乗り、どうやって部屋のドアをくぐったのか……
気がついた時には、何故かドレスのままでシャワールームにいた。
身体は、汗なのかシャワーの飛沫なのか判別出来ない水滴にまとわれ、ドレスは素肌と溶け合って私の身体を覆っていた。
私は、せっかくのフルメイクが流れてしまうのも気にならず、右手と左脚で男に絡みつきながら、左手に握ったクリュッグをボトルから直接その金色の液体を口に含むと、それを自ら男の口の中に流し込んでいた。
どこから始まったのか、いつ始まったのか……
心地よい酩酊感。
肌に叩きつけるシャワーは、私に張り付いた幾つのも仮面を洗い流す。
カレと泊まるはずだったホテル。
男の手が、私の素肌と一つに溶け合ったはずのドレスの裾を、まるで薄皮を剥ぐようにして捲り上げる。
それは私のプライドという名の薄い皮膜。
私は僅かに腰をずらして男の動きを助けることで、そのつまらないプライドを自ら脱ぎ捨てていった。
そもそも私は本当にカレのことが好きだったのだろうか?
一流私大卒。
父親は元外交官で、自らも外務省勤務。
背も高く、顔もまぁまぁ。
加えて海外生活が長いため自然と身に付いた、本場仕込みのフェミニスト。
カレを紹介して羨ましがらなかった友達はいない。
誰もが妬みと羨望とを持ちながらも、私には敵わないと諦める。
私は――。
生まれは全く普通のサラリーマン家庭。
常に忙しい共働きの両親は、それでも私に、共に過ごす時間の代わりに、人に秀でた明晰な頭脳と容姿をくれた。
もちろんそれだけじゃない。
努力もした。
それこそ、私を羨む人たちが想像も出来ないような努力を積み重ねてきた。
公立の進学校を経て国立大。
経済学を学び、卒業後は大手都市銀行に入社。
ОLの枠には収まらず、株に興味を持ったことがきっかけで、その後、為替の世界を知る。
昔から勉強は嫌いじゃなかった。
勉強は私を豊かにしてくれる。
その結果、やっと為替の仕組みが分かってきた頃――。
私には少ないながらも、銀行を辞めてフリーのトレーダーとして一人立ち出来る程度の資産が出来ていた。
もちろんそれらは全て自分一人の力でやってきたことではない。
そこは色々とご指導ご鞭撻をくださる数多の男性がいたこともまた事実。
だけどそれとて自分の努力の賜物以外の何物でもないと思っている。
いかに両親がくれた素晴らしい素材があったとしても、何もせずに高校、大学でミス・キャンパスに選ばれ続けることが出来るほど今の世の中甘くはない。
育ち盛りの若い娘が、食べたいものも食べず、夜遊びも控えてただひたすらに自分を磨き続けてきたから他ならない。
これはその結果。
もちろん周りに男性は常に複数いた。
それでも相手は慎重に選んできたつもりだ。
私は私を高めてくれる人としか付き合わない。
私を輝かせてくれる存在としか寄り添うことをしない。
とはいえ一夜の遊びなんかは別。
私だって大人の女。
自然とその場の流れに身を委ねることだってある。
でも、それはそれ。
一夜の遊びはいつだって所詮一夜の遊びにしか過ぎない。
はずなのに……
立ったまま、男の膝が太ももの間に割って入ってくる。
岩のように硬く絞まったその大腿筋が、すっかり敏感になってしまった私のそこに強く圧し付けられ、それがゆっくりと上下に擦れる。
はぁ……
思わず吐いた吐息に押されるように、私は自ら腰を押し付けていた。
カレは……カレは今頃……
身体は熱く燃えているのに、頭はまだ一部冷たい部分を保っているのか……
〝結婚したら……〟
カレは細かい細工の入ったシルバーのフォークを置き、慣れた手付きでナプキンを手にとって口元を軽く押さえながら言った。
〝結婚したら君には家庭に入ってもらおうと思っている〟
えっ……?
この時点で私はカレにプロポーズも受けてはいなかった。
〝君が退屈だと言うんなら、トレーディングは続けたって構わない。
ただ、結婚したら僕はすぐにでも日本を出ることになるだろう。
その時にはもちろん一緒に来てもらうし、そうなったら暫くは毎晩のようにどこかのパーティーに出かけなくちゃならない。
当然君にもそれなりの役割が求められてくるし、為替の動きなんかよりも先にその国の習慣やマナーを覚えてもらわなければ……。
だから趣味程度のお遊びなら構わないが、今のように本格的にやることは出来ないよ。もちろんやる必要もないしね〟
必要?
〝そう。必要がない。
僕と結婚すればお金には困らないよ。
だから今みたいになりふり構わずがむしゃらに稼ごうとする必要はないんだ。
第一そういうのは僕達選ばれた人間のする仕事じゃない。
それに何と言っても君は美しい。
僕の輝かしい人生に寄り添う花として申し分のない存在だ。
だから……ね。
君はこれからも、僕のためにただ美しくありさえすればそれで良いんだ〟
カレの言葉は私を酷く傷つけた。
それでもここまではまだ我慢も出来た。
私が席を立ったのは最後の一言。
この1周年という記念日に吐かれた最後の言葉。
「さぁ、今日はあまり時間がないんだ。部屋を取ってあるから早く済ませて帰ろう」
いいかい? 今からゲームをしよう。
いいわよ。何をするの?
私達はシャワー室で濃密に絡み合った後、東京の夜景を遥か上空から見下ろしながら、大きなソファーで再びグラスを傾けていた。
改めて部屋を見回す。
3部屋続きの豪華なスウィート。
男はここに宿泊している訳ではなく、滞在しているのだと言った。
つまりはここをいつまでと決めずにセカンドハウス兼事務所代わりに使っているのだと、さらりと言う。
ところが何故かそれが厭味にならず、自然と受け入れることが出来るだけの雰囲気を纏っている男だった。
そして、やはり――と言うべきか……。
男のセックスは見かけに違わず素晴らしいものだった。
最初に想像した通り、今はガウンに包まれたその肉体は鋼のように強靭だったし、優しく、そして目眩めく快楽で私を翻弄し、力の限り蹂躙した。
久しぶりに感じた女の悦び。
その余韻を、金色のシャンパンはより長く甘く継続させてくれる。
――君は今から声を出しちゃいけない。私がすることに対して声を出すのを我慢出来れば、ご褒美に何でも一つ、君が欲しいものをプレゼントしてあげよう。
本当? 知らないわよ? 私が何を要求するのか……
良いよ。出来る範囲なんてケチなことを言うつもりはない。何でも良いんだ。
うふふ……。本当にくれるの? 私の欲しいもの。例えそれが貴方の人生でも?
怖いなぁ……ただし、一つ制限を設けさせてもらう。君には今からコレをつけてもらおう――。
簡単な言葉遊び。それが終わると男は真っ黒なシルクのスカーフのようなものを取り出した。
――何? それで目隠しでもするの?
そう。よく分かったね。君のような大人の女性なら、私のすることが事前に知れてしまっただけで、それに対して身構えることも容易だ。目隠しはそれを帳消しにする。それくらいのアドバンテージをもらわなきゃ、君のように、簡単に〝人生をかけろ〟なんて口にする女性の相手など怖くて出来ないからね。それでも受ける?
えぇ、いいわよ――。
結局はただの目隠しプレイか……強引過ぎないところは好感が持てるけど、それにしては、たったそれだけのことに少し回りくどくない?
貴方はもう少しスマートな人だと思ってたけど?
お願いだからこれ以上私を失望させないでね。
――でも、もし……もし私が我慢出来なければ? その時はどんなお仕置きが待ってるの?
そうだな。そのときは……その時は代わりに君の人生でももらおうかな?――。
男はそう言うと悪戯っぽい笑顔を向け、両手に握ったスカーフのようなもので私の視界を奪った。
うふふ……。ちょっと刺激的。分かっていてもドキドキする。
で、この後はどう攻めるの? 爪の先でも這わせる? それともいきなりローターでも使う?
男の攻撃が予測されるうなじや耳元に小さな緊張が走る。
決して嫌いではない。
嫌いではないが、自然と肩には力が入る。
どこ? まさかいきなり胸なんてことはないわよね。
だが、その期待を裏切るかのように、男の接触はない。
パチン。
目隠しを通しても部屋の電気が消されたことが分かる。
そして訪れる本当の静寂。
週末を迎えた都会の喧騒もここまでは届かない。
やがてじれだした頃、やっと男の動く音が聞こえた。
バサっ。
いつの間に移動したのか、隣のベッドルームから、布団を剥がすような音が聞こえる。
まさか――。
突然沸き起こる不安。
隣の部屋には別の数人が待機していて、そのまま輪姦され……
まさかそんな……いいえ、ある訳がない。
第一、すでに手に入れた女にわざわざそんなことをする必要性などどこにもないじゃない。
思っていても足が竦む。
僅かな可能性を拾い出し、ありもしない想像が頭を駆け巡る。
怖い――。
初めてそう感じた。
遠い記憶――。
あれはまだ私が8つか9つの頃。
一緒に留守番をしていた、当時まだ小学校に上がる前の幼い弟を驚かせてやろうと、一人押入れに篭って隠れていた時のこと――。
待てども待てども弟は押入れの前には来ない。
押入れの襖の前に大好きな玩具でもばら撒いておけば良かった……などと後悔しながら、私はいつの間にか眠ってしまっていた。
目覚めた私が最初に感じたのは不安。
最初意味の分からなかった不安の原因は、襖の隙間から差し込んでいたはずの明かりが無くなっているということ。
怖い――。
何故か猛烈に恐怖を感じた。
平和な日常。
起きてみたらいつの間にか世界は闇に覆われていた。
そして真っ暗な押入れから光を求めて扉を開けても、そこにはまた新たな闇が広がっているのだという事実。
でも更にその部屋を出ればそこには灯りが……
本当に?
もし、万が一そこにも闇が広がっていたとしたら、私は一切の希望を失ってしまう。そう思うと、私は押入れの襖に掛けた腕に力を込めることが出来なかった。
タスケテ……
思わず声を出しそうになる。
そこで気づいた。
――なるほど……そういう手に出たか――
タネを理解したつもりになるが、それがあくまで〝つもり〟に過ぎないことを、私自身が一番よく知っていた。
今にも震え出しそうな膝。
だめ。相手の作戦に乗っちゃだめ。
必死で自分に言い聞かせながらも、突然髪を一撫でされた時には、よく叫びだすのを我慢出来たものだと自分で感心したくらいだ。
だが、男は私のそんな思いなど知ってか知らずか、その髪を撫ぜた指先をそのまま肩から腕へとゆっくり滑らせていく。
すると私の身体は、男の指が這ったところだけ冷たい吐息を吹きかけられたかのように次々とうぶ毛が逆立っていった。
男の動きは手首を通過し、手の甲まで進むと急に進路を変え、あのセクシーな中指を掌側に滑り込ませる。
ぞくっ――。
男は、私の掌をひと撫ぜしたところで突然手を取ると、ゆっくりと私をソファーから立ちあがらせた。
そしてそれをそのまま前方へと引くものだから、目隠しのままの私は、否応無しに歩くことを強要される。
真っ暗な部屋。
目隠しをしたまま、見知らぬ男に手を引かれ、バスタオル一枚で部屋を歩く女。
これはこれで大いに怖いことであるに違いあるまい。
けれどこの時の私の意識はそこにはなかった。
闇に包まれた私に手を差し伸べてくれた人。
理性と本能。
意識と無意識が混雑する。
導かれた手が優しく引かれ、何かに触れさせられた。堅い木の感触。
「椅子がある。分かるね。ここに座りなさい」
こくん、と頷いて座ろうとした途端、唯一身体を覆っていたバスタオルを外された。
それは剥ぎ取られたというのではなく、優しく、ごく自然なことに思えた。
椅子に座る。
さっき鏡の前に置かれているのを見た、豪華な細工が入った木の椅子だろう。
見たときに、ルネッサンス調という言葉が浮かんだが、私にその方面の知識はない。
豪華で高そうに見えたけど、あまり厭らしくはないな……と感じたことだけは覚えている。
ビッ! ビリィィィィ……
その時突然響いた布を引き裂く音。思わず体が竦む。
「なにっ?」
「何も。ただシーツを引き裂いただけだ」
驚いた私に向かって男は平然と言い放つ。
シーツ? 引き裂く?
「それはそうと……」
男は、何のためにシーツを破ったのかを考えている私の後ろに回ると、耳元でそっと囁いた。
声を出したね……
はっ!
「いやっ、あれはっ……」
ちょっと待って……と、言おうとしたところで、大きな掌で口を塞がれた。
だめだ。約束だよ。
君は声を出しちゃいけない。
耳元で静かに響く言葉。
私は黙って頷いた。
「君は私に人生を賭けろと言ったね」
口元からゆっくりと男の掌が離れていく。
――まさか遊びだとでも思ったのか?――
後頭部から首筋にかけて寒気が襲ってきた。
背中には冷たい汗が噴き出してくる。
本気?
疑いたい自分と疑えない空気がある。
「仕方ない。私は女性には優しい方だ。1回目は簡単な罰で許してあげよう。でも、次は知らない」
自分でも滑稽なほど、何度も小刻みに頷いていた。
そしてその頷いている両の頬を掴まれ、無理やりに口を開けさせられる。
――私のすることが事前に知れてしまっただけで、それに対して身構えることも容易だ。目隠しはそれを帳消しにする――。
男の言葉から自分が想像していた淫靡なお遊びは、実はそれ自体がとんだ見当違いのものだったのではないか?
開いた口に、たった今引き裂いたシーツと思われるもので猿轡をかまされる。
「これで言葉は喋れない。だけど声は出せてしまうから気をつけるんだ。さぁ、立ちなさい」
男に命じられ、言われたままに立ち上がる。
次に両の手を掴まれて前で揃わせられた。
それはまるで、今から手錠を掛けられる囚人のように。
緊張で膝が震える。
だが、男はすぐに次の行動へとは移らなかった。
その姿勢のままで待たされる。
一体どのくらいの時間、そうしてただ立っていたのだろう。
1分か、5分か、それとも1時間……心臓の鼓動が早い。
長い時間、男が耳元で何事かを囁いていたような気がするが、いつの間にか意識は朦朧としていてそれすらも定かではない。
何を言われたのか、どのくらい言われていたのかも全く分からず、代わりに自分の呼吸だけが荒くなっていたことに気がついた。
――前に揃えて出した腕は、これから手錠やロープのようなもので繋がれてしまい、それで本当に私は自由を失ってしまうのだ。そうなれば、声を出そうが出すまいが、結局この男の好きにされるより他、私には一切選択の余地がなくなる。
そう。これからこの男の好きなようにやられてしまうだけ――。
揃えて前に出した腕に、やっと男が触れてくる。
来た――。
鼓動は更に早くなる。
冷たい金属か、それとも荒々しく毛羽立った荒縄か――。
だが、それらの感触を想像していた私の腕は、意外にも肌触りの優しい布のようなもので括られ始めた。
しゅっ、しゅっ……っと、時折布が擦れるごとに、静寂を打ち破って乾いた音が響く。
肌にあたるこの感触。
恐らくさっき猿轡に使った物と同じ、シーツを引き裂いたものに違いない。
ビッ、ビィィィィイイイ……
足りなくなったのか、更にシーツを引き裂いている。
男は私の、前で揃えた両手を縛ると、それを頭の後ろの方に持って行き、余った布を私の胸の上下にしっかりと縛りつけることでそれを固定した。
両の脇を晒した無防備な姿。
あまりの恥ずかしさに顔を下げようとするのだが、口に回された猿轡が腕かどこかに固定されているらしく、思ったほど下を向くことが出来ない。
……っと、いきなり口の端から涎が毀れそうになり、それを慌てて吸おうとして顔を上げた瞬間、男の指が私の中に入ってきた。
あまりにも突然の出来事に思わず膝から力が抜け、身体が前に倒れそうになる。
だけど、それを男に支えられながらも、私は自分でも気づかぬうちに、ここまで濡らしてしまっていたことを知る。
「あっ……あぅぅぅ……」
なぜ知っているの――。
遠慮なく掻き回される指。
その指は的確に私の弱いところを突いてくる。
私は屈んだ拍子に毀れ出した涎を止める術も持たず、ただただ小刻みに身体を痙攣させていた。
「声を出さないと約束したろ?」
うっ、うっ、うっ……
止めようとしても、身体が痙攣するたびに、声は次から次へと漏れ出てくる。
ぐちゅ……
最後にひと際大きな波に襲われ、激しく痙攣しながらくず折れたところを男に抱えられ、そのまま再び椅子に座らされる。
「何だ……もう諦めたのか?」
男の声が低く響くが、私は頷くことさえも出来なかった。
「お前が諦めてこのゲームから降りることは構わない。だが覚えているのか? お前はすでに自分の人生を賭けてしまっていることを。すでに罰を与えられたモノについては、その勝敗は問わない。何故ならその時点でそのゲームの決着はついているということだから。だが、お前が完全に降りるというのなら、無条件で負けを認めてもらう。そして勝者は当然の権利として、相手の人生そのものを獲得するんだ」
狂っている……
背中を伝っていた冷たい汗が全身へと広がる。
それと同時にどうしようもない悪寒が走る。
この男は狂っている。
そしてこれは言葉遊びなどではなく全て本気の行為なのだ。
言い終わると同時に、男は新たな罰として私を椅子に縛りつけていった。
さっき縛り上げられた、揃えて頭上に差し上げられた両腕はそのままに、身体は椅子の背もたれに固定され、脚は椅子に座った状態で左右に大きく開かされ、それを椅子のそれぞれの脚に繋ぎとめられていく。
声は出せない。
抗議だろうが何だろうが、声を出したら次は何をされるか分かったものではない。
口に通された猿轡を強く噛んで耐えよう。
そう思った時に、再び男の指が、私の中に割って入ってきた。
身体が震える。
何がどうなっているのか……
こんなことは初めてだった。
何も特別なことはされていないはずなのに、ただその指で掻き回されるだけで、気が遠くなってしまうほどに快楽の波が襲ってくる。
怖い。
怖い。
狂ってるこの男が怖い。
狂ってるこの男の指に狂わされている自分が怖い。
くちゅ……
あっ、あっ、あぅ、うぅ、ぉおお……
パンっ!
突然それはきた。
ジンジンと痺れ、熱を持って腫れ上がったような太もも。
「声を出してはいけないと言っている」
引き戻される現実。
それでも身体の震えは止まらない。
パンっ!
平手で叩かれるたびに熱が生まれ、今や太ももは2倍くらいの太さに腫れ上がっている……ように思えた。
あぁ……ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……
パンっ!
頭で思っているのか声に出しているのかも分からない。
ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……
前にのめる上体、益々震えは止まらない。
どぶっ……
溢れだす……
そう思った途端、更に大きな波に襲われ、真っ白な泡に包まれた私は上下の感覚さえも失ってしまう。
「ねぇー、お姫様だ~れ?」
聞くまでもない。
文化祭の演劇の主役はいつだってこの私に決まっている。
「私、囚われのお姫様が良いと思うの。お姫様はね、悪い継母のお后様にいじわるされて、高い高いお城の上のほうの部屋に閉じ込められてしまうの。〝ゆうへい〟って言うのよ。でもね、それを隣の国の王子様が悪い継母のことを王様に言いつけて助けてくれるの」
もちろん王子様の役はコウヘイ君しかいない。
王様は誰にしようかな……
――遠い記憶。今私は夢を見ている。夢の中で、これが夢だと理解した状態のままに夢を見ている。ううん……違う。夢じゃない。これは幼い頃の記憶。自分の行動の結果など気にせず、欲しいものは欲しいと、やりたいことはやりたいと素直に言えた頃の楽しい思い出――。
「そこで王子様が助けに来るんだけど、その時私は縛られてたりする方が素敵じゃない?」
――うふふ。そんなこと言ってたなぁ……何だろう? 時代劇なんかとごっちゃになってたのかな? 縛られて、自由を奪われて……でも最後には素敵な王子様が助けてくれるの――。
頭の上に纏めて縛り上げられた腕を一旦解かれ、今度は左右それぞれの腕を身体に沿うように下ろして縛りなおされる。
それだけで……私は、ただ縛られているというそれだけのことで、すでに恥ずかしいくらいに溢れさせていた。
早く。
早く犯してください。
王子様……
え?
ぴしゃっ
ぴしゃっ
頬を軽く叩かれて目覚めた。
いつの間に解かれたのか、頭の上で縛られていた腕は、今は身体にぴったり沿うように下に向けられ、ホテルマンの待機の姿勢のようなカタチで、身体の前に交差させられている。
そして猿轡。
これもいつの間にか外されていた。
あ……
自由になった口で呆けたような声を出した瞬間、ソレのスイッチを入れられた。
ブィーンン……
「まだ声を我慢出来ないのか?」
ひっ、ひっ、だめっ!
突然引き戻された現実。
いやっ! 止めて! 早くソレを止めて!
自分の意思とは関係なく、まるで別の生き物のように腰が勝手にくねる。
止まらない。
男に髪を掴まれ、これ以上ないほど感じているはしたない顔を上げさせられても、いやらしく動く腰の動きは止められない。
「はしたない女だ。そんなにソレが好きか?」
その言葉でようやく、中で暴れまわって私を狂わせている玩具を握っているのが自分自身の手だということに気がついた。
――私は、自ら玩具を自身の中に突っ込み、いやらしく腰をくねらせていた――
私は――わたしははしたないおんな――
ビクビクと痙攣しながら声を上げ続ける私に向けて、男は玩具のスイッチを切り、静かに語りかけた。
「お前のような恥ずかしい女には少し痛みが必要だ」
途端にさっきの平手が蘇る。
叩かれた右の太ももはまだ熱く、ジンジンと痺れながらも新たな熱を期待していた。
「マゾめ」
脳が痺れた。
言葉で仰け反った私の、今度は左の太ももを男が軽く摘む。
摘まれたと思った時にはソレがきていた。
痛っ……
ほんの一瞬の鋭い痛み、続いてそれは痺れるような鈍い痛みに変わる。
うっ……
続いてさっきの場所のほんの少し上にも同じ痛みがきた。
爪? それとも画鋲か何か?
鋭く抜けるような痛み。
爪の先で強く抓ったような、針で刺したかのような痛み。
それは、激しくはないがジンジンと熱を感じさせる鈍痛。
さらにそのすぐ上にも。
男は私に考える隙を与えぬかのように、次から次へと痛みを与え続ける。
太ももの真ん中あたりから始まったその痛みは、少しずつその場所を体の上へと移動して行き、今やわき腹の辺りに達していた。
皮膚を軽く摘まれてはチクっ。
摘まれてはチクっ。
一つ一つはそこまで大した痛みでは無い。
だけど、絶え間なく続く鋭い痛みと、それに続いて訪れる鈍痛、熱は、次第に大きな恐怖となって私に襲い掛かる。
痛い。痛い。もう嫌。もうやめて。
全身に悪寒が走り、気が狂いそうになる。
痛、嫌、痛、嫌、痛、嫌、痛、嫌、痛、嫌、痛、嫌、痛、嫌、痛、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌……
「まだ声を我慢出来ないのか? よっぽどこのお仕置きが気に入ったようだな」
言われて初めて、私は自分がわめき続けていたことを知った。
ソレが乳房の下辺りにまで達した時、やっと男は手を休めた。
「だめだ。多少のアドバンテージのつもりだったが、目隠しをつけたままじゃ全くゲームにさえならない」
言いながら目隠しのスカーフを取り払われた。
照明を全て落とした真っ暗な部屋。
テーブルの上の蝋燭の炎だけが唯一の灯り。
けれど、ずっと光を奪われていた私には、その光でも充分に眩しいくらいだった。
何と言っても視えるということの安心感。
そして光の持つ暖かさは、私の肩に入りすぎていた力を少しだけ抜いてくれる。
ぼやけた視界が、ゆっくりと焦点を合わせていき、次第に像を結んでいく。
いつの間に――。
そこに立っている男は、いつの間にかさっきのバスローブ姿ではなく、出会った時と同じ、黒いビロードのジャケットに着替えていた。
そしてあの眼。
絶望を湛えたような眼が、深く醒めきった微笑を彩る。
この男……
この眼は、狂ってなどいない。
そしてその冷たすぎる視線が私の足下から乳房の辺りまでを舐めるように動く。
つられて動かした私の視線が捉えたもの。
一瞬、そこに在る光景が理解出来なかった。
私の太ももから乳房の下にいたるまで、まるで美しい昆虫採集のセットを思わせる、規則正しく一直線に並んだ注射針。
そして、蝋燭を立てたテーブルの上には、シャンパングラスと並んで無造作に納められた注射針の紙の箱が、まるでビスケットの缶だとでもいうように無造作に置かれてあった。
カタ……
業務用と思われるそれは、何の飾り気もなく、注射針のイラストと共に、ただ22Gという、型番なのか号数なのか分からない表記だけがなされていた。
カタカタカタ……
男の繊細だが力強い指が、そこから無造作に何本かに連ねられた針のパッケージを取り出す。
その時――
こちらに向けられた男の視線が濡れた。
笑った……のか……
カタカタカタカタカタカタ……
煩い。
煩い。
男は濡れた瞳をこちらに向けたまま、連なったパッケージから新たな1本を取り出し、キャップを外した。
カタカタカタカタカタカタカタカタカタカタ……
煩い。
煩いよ。
さっきから鳴り続けている音。
知ってるよ。
椅子に縛り付けられた私の身体が震えているって言うんだろ?
それぐらい言われなくっても知ってるよ!
知ってるけど煩いものは煩いんだ!
うるさいっ!
チクっ。
「ぎゃぁぁぁああああああああああっ……」
ちくび……
ちくびに……
パンっ!
いきなり頬を張られ、意識が朦朧とする。
痺れた頭は、顎を上げて仰け反ったまま小刻みに痙攣し続け、自分で自分の眼球が裏返っているのが分かる。
そしてその裏返った眼球を、人が常軌を逸して壊れて行く過程を見逃すまいと男の絶望が見つめている。
その絶望を湛えた眼は、初めは普通の大きさだったのが次第に大きさを増していき、今では私の顔くらいの大きさに広がっていた。このまま大きさを増し増し増し増し部屋中が一つの大きな眼になって部屋中が眼になって大きな眼になって私を見つめるのね。部屋中が見つめるのね見つめるのね。
男に見つめられながらの自慰による腰の動きが止まらない。
まるで何かの冗談のように乳首に突き立てられた注射針を、男が無表情に捻る。
そのたびに、今までに感じたことのない真っ白な光の矢が脳天を突き抜ける。
その間も、針の進攻は止まらない。
乳房を過ぎ、首筋を通り、頬を経て、今は唇を上下に縫い合わされている。
これでもう、何も喋らなくてもいい。私はこの人のすることを黙って受け入れながら、いやらしくただ腰だけを動かしていればいい。
そのことが、堪らなく快感だった――。
「お前の負けだ。お前の人生をもらおう」
人生?
あげる。
あげるよ。
ぜんぶあげるから……
も っ と く だ さ い……
了
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